駒野と松井が肩を組んで涙を流しているシーンに心を打たれた。
たぶん同じ思いをした人も多いと思う。
なぜ私たちはスポーツ選手の涙に感動するのだろう?
以前も同じことを考えたことがあった。
あれは2005年の女子プロゴルフ・ブリジストンレディスのことで、アマチュアながら最終日まで首位だった諸見里しのぶが18番ホールで3メートルのバーディーパットを外して優勝を逃し、涙を流していたシーンを見て同じように心を打たれた。
同じ年郵政改革で圧勝した自民党、小泉元首相に閣僚に指名された議員達が総理官邸に呼ばれカメラの前を通過したときに見せた笑顔を見たとき、どうして諸見里しのぶの涙はあんなに美しいのに、この閣僚たちの笑顔はこれほど汚く見えるのか?と感じた。
閣僚になるとは満面の笑顔でいられるほど喜ばしいことなのか。
でも、今回の日本代表を見てその理由がなんとなく分かった気がする。
それはフェアネス、ということではないか。
経済競争はフェアではない。
私たちは基本的に金の多さが経済的発言権の大きさを意味する世界に生きている。
お金のある企業が良い設備を購入し、より多くの人材を投入し、自ら新しい競争のルールを作り出すという競争環境にどっぷりつかっている。
意識する、しないは別にして。
しかし、サッカーフィールドの上では金の多さは関係ない。
お金を持っているチームが有利な道具を使えるわけではない。
人数を増やせるわけでもない。
同じルールの上で雌雄を決するのだ。
もちろん金が多いほうがスタープレーヤーを集められる。
しかし、強い個人の集まりが、必ずしも強いチームとは限らない、というシーンを私たちは嫌というほど目の当たりにしてきた。
それがスポーツの奥深さであり、特にチームスポーツの醍醐味だ。
そこは純粋に人間の精神と肉体そして頭脳の優劣が問われる過酷な世界。
結果に神が介在する余地はない。
勝った方が負けたほうよりも強かった、残る事実はそれだけだ。
スポーツというのは不公平な資本主義社会の中で残された数少ないフェアな空間であり、それゆえに私たちは熱狂し、選手と同じ夢を見ることができるのではないか、そんなふうに感じた日本代表の戦いだった。
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