憲法第9条

今年も終戦記念日がやってきた。

 

テレビを見ていると敗戦を機に制定された平和憲法の象徴である第9条改正の議論が今年もそこかしこから漏れてくる。

 

そういえば大学1年、法学部生として憲法を学んだとき、教授から9条の問題点と改正の方向性について学び、これぞまさに法学と大いに興奮したのを覚えている。

 

その時教授から学んだ改憲の論理といまだほとんど変わらぬ議論がなされていることに驚く。

 

が、考えてみれば当然か。

なにせ60年以上全く改正されていないのだから、主要な論点はもう出尽くして、論客から出てくるのはいつぞや聞いたことのある論理の焼きまわしになるのは仕方のないことだろう。

 

 

しかし、私は憲法を改正することなくここまで来たことに、ひそかに日本国民ナイス!と言いたい。

いろいろ間違えもしてきた私たちだけどこれはナイスな判断だ。

 

 

テレビで改正の必要性を論理的に訴える政治家を見ていると、憲法9条の改正の最大の論点を日本の政治家は気づいていないのではないかと思う。

 

 

私は日本国民は憲法9条の、いやそれ以外の条文も含めて問題点だらけであることを理解しているのではないかと思う。

 

古くて時代にそぐわない、憲法守って国滅ぶ、問題だらけ。

でもそんなこと実はわかっているのだ。

 

そして実は改正する必要性についても多くの国民が本当は合意に達することができるはずだと思っている。

 

 

ではなぜ改正されないのか。

 

 

私たちが合意できないでいるのは政治家の使いやすいように自衛隊を委ねることなのではないか。

つまり私たちは彼らの手に憲法の改正を委ねることに合意が出来ないのだ。

 

 

政治家は憲法が使いにくい!としきりに訴える。

しかし、政治家にとって使いにくい、ということはこれは極めて重要なことだ。

 

私たちは政治家にとって使いやすいものが、必ずしも国民にとって使いやすいものとは限らないということを正しくも本能的に理解しているのだ。

 

いや、学んだのかもしれない、先の大戦で。

 

 

軍隊という巨大な力を彼らにとって不便なものにしておくというのは極めて大切なこと、これは60年たっても未だに衰えない憲法改正への最大の反論なのだ。

 

 

政治家が証明しなければならいことは、憲法9条が国民にとってどう使いにくいか、どう問題があるのかということではない。

 

証明すべきは、どうして自分たちにその改正が委ねられるべきなのか、自分たちにそれが委ねられるべき資格がなぜあるのか、ということに他ならないのではないだろうか。

 

 

ところでこのブログも憲法のことにまでテーマを広げる(口出しする)とはなんとも偉くなったものだ。

が、これがブログというものだから仕方がないと思って頂きたい。